「え? なにしてんの?」
百々子は自分のベッドにぽつんと座っている菜々子を見上げて言った。菜々子のフワッとした髪の毛は、その場から逃げ出そうとするように四方に散らばっている。
どうしてこんなことになっているのか、理由は全く分からなかったが、相手が菜々子だったことにはホッとした。そして目の前の異様な光景に、心臓を小さな虫が這うような、こそばゆい感覚を覚えた。
(自分のベッドに人が入り込んでいたなんて……その人間が昨日知ったばかりの女だなんて……その女が実は双子の妹だったなんて……) ここまで初めての経験が盛りに盛られると、むしろ清々しい。
菜々子は、明るくなり始めた窓を背にしているので、逆光で大きな体が影になっている。
だけど暗い印象はない。
(なんでかよう分からんけど、この子、輪郭に線でも引いたみたいにはっきりしてるな)
百々子の見入るような視線に晒される菜々子は、気の毒なぐらいシュンとしている。
一方、百々子には違って映る。不思議なことにこの妹は、逆光で影になっているにも関わらず、自力発光するホタルのように、明るい印象を振り撒いている。そんな神秘的な菜々子の表情が、悪戯が見つかった子どものように視線を落としておどおどしているので、昨日感じた威圧感はなく、人間臭い可愛らしさが溢れていた。
(なんか変な気になってくる。どないしてんやろ?) ダンベルがめり込んだかわいそうな尻を左手でさする。
百々子は感情に任せて怒鳴るような子ではなかったが、感情をむき出しにしてくれた方が助かることもある。今の菜々子はまさに無言の百々子に圧倒されていた。
「ごめんなさい。その……あの……」
菜々子は小さな声でなにかを言おうとする。自分でも今の状況が予想外だったのだろう、明らかに混乱していたし、どう説明したらよいか分からないといった反応だ。
「うぐっ」
そんな菜々子を見ながら、百々子は水を飲もうとベッドの横に置いてある2リットルのペットボトルに手を伸ばした。すると、お尻にキュッと痛みが走って思わず声が漏れた。そしてラッパ飲みで豪快に水を飲み、ベッドに移動して菜々子の左側に並んで座った。
「飲む?」
百々子自身気付いていなかったが、自分が口を付けたペットボトルをそのまま菜々子に渡している。
「寝起きって口気持ち悪いし、臭かったら嫌やろ?」
ところが菜々子も、さも当然のようにペットボトルを受け取ると、そのまま口をつけて勢いよく水を飲んだ。一気に500ミリは飲んでいたのではないだろうか。百々子は菜々子の飲みっぷりに少し驚いたが、ただそれだけで、何度も繰り返してきた日常の一コマのような空気が流れていた。
「ありがと」
そう言う菜々子の口からは少し水がこぼれ、朝日に反射してほのかに光った。彼女は、百々子にペットボトルを返すとそっと手の甲で口を拭った。そんな少しのやりとりで緊張が解けたのか、菜々子の表情はかなり落ち着いてきた。
(この子、前髪の流れ私と逆やな) ベッドの上で綿毛のような癖っ毛が、鏡に写したように並んでいる。
百々子は受け取ったペットボトルを元の位置に戻すと、菜々子を左手で抱きかかえるようにして、二人向かい合って寝転んだ。
「ほんでなにしてたん?」
百々子は大きく丸い目で菜々子の目をじっと見る。菜々子も目を逸らさないで、そのまま20秒ぐらい無言のまま見つめ合った。
(この子の目、めっちゃ丸くて大きいな。柔らかくて優しい感じやのに、キリッとして目力もすごい) 百々子は菜々子をマジマジと見ながら、その美しさを改めて実感した。
「昨日……」 菜々子がゆっくりと話し始める。
「うん?」
「姉さんを見てびっくりした」
「びっくりしたって?」
「ママと……ママとそっくりだったから」
「……そっくりなんや?」
「うん」
百々子は昨日、菜々子とちょくちょく視線が合うような気はしていたが、そういうことだったのか。百々子は母親の顔を全く覚えてなかったけど、一緒に暮らしていた菜々子にとって、そっくりな顔がそこにあれば気にはなるだろう。
(私かって菜々子のことめっちゃ見てたしな) 百々子は言葉を返さず、菜々子が続けるのを待った。
「それで、もうちょっと話したいと思ったの。ピアノを弾いているときも後ろにいてたけど……夢中だったし、そのまま部屋に戻った」
「え? あのときいてたん?」
「うん。扉開けて見てたら、吉信さんに部屋に入るように言われて」
「全然気付かんかったわ。声掛けてくれてもええんやで」
「じゃあ今度からそうする」
「それで?」
百々子は先を促す。このときの二人の距離は10センチほどだろうか、互いの髪の毛が相手をくすぐる。
「やっぱり気になって姉さんの部屋に行った。それでノックしたけど返事がなかったから、部屋を覗いてみたら寝てた」
「入ったんや。会って1日も経ってないのに?」
「ごめん」
「冗談。別にエエよ。それで?」
「カーテン開けて寝るんだね?」
「うん、そやで。それがどうしたん?」
「私も一緒やから」
「そうなんや」
「ママもね」
「そう」
百々子は母親との共通点が出てきたところで気が重たくなった。百々子には馴染みの薄い存在だが、菜々子はそうではない。それに百々子にとっても、母親という言葉の影響はあった。カーテンを開けて眠るくだりは、百々子視点では普通のことで拘っていたわけではない。だから他の人がどうやって眠っているのかどうでも良かったが、母親を出されると、自分の考え方が冷たいことのように感じてしまう。
「だから顔がはっきり見えた。やっぱりママにそっくりだって思って、しばらく見てたの」
「見てたのって……私、あんたにずっと寝顔見られてたん?」
「うん」
百々子もこれはさすがに恥ずかしかった。
「そんなに似てるんや?」
「そっくり」
「そう。それで?」
「え? うん、その……ちょっとだけと思って布団に入った」
菜々子は、母のことを聞いても淡白に話を進める百々子に違和感を覚えた。だが、百々子が時折視線を外すのを見て、平静ではないことにも気付いた。
「マジかよ。ちょっとだけってなんなん?」
「いや……その……」
「なにしたん?」
「なにって……なにもしないよ」
「……まぁ、そうか」 百々子はスンとトーンを下げる。自分がどうしてそんなことを尋ねたのかまったくもって不思議だ。
(ほんまや、「なに」ってなんやねん) 百々子は顔が熱くなるのを感じる。
「ごめんね」
「別にええよ」
「それで、姉さんの寝息を聞いてたら、そのまま寝てしまったの」
(なるほどね) 百々子は妙に納得してしまった。ベッドに勝手に入って寝息を聞いていたなんて滅茶苦茶な行動なのに、逆の場面が突如浮かんだ。
「それいつも着けてんの?」
百々子は菜々子が左手に着けているブレスレットに優しく触れた。それは吉信も着けているユニバーサル・ジョイントをデザインに取り入れたシルバーのブレスレットだ。少しゴツいデザインだが、身体が大きい菜々子によく映えていた。
「うん。でも最近だけどね」
菜々子は、百々子が触れている手の上から、包み込むように自分の手を重ねた。交わる視線が時を止める。
「パパも着けてる。高級品やで」 百々子の口が機械的に動く。
「高級かどうかは知らないけど、吉信さんが着けてるのは知ってる」
「同じやし気付くか。いつから着けてんの?」
「先月から。ママに貰った」
「そうなんや」 百々子の胸がキュッと絞めつけられる。
「吉信さんが着けてるの見たときはショックやった」
「なんで?」
「なんでかは分からないけど」
「ママもずっと着けてたん?」
「うん」
「……そう。でもまぁ……ママの話はええわ」
「……聞きたくないの?」
「そんなことないけど、今はしんどい。また聞かせて」
「分かった」
百々子が時計を見るとまだ5時半だった。
「もう少しだけ寝るわ」 そう言って百々子は目を閉じた。
「ここにいていい?」
「いいよ」
そんなやりとりの後、二人は1分も経たずに寝息を立て始めた。
* * *
「そっくりやな」
吉信は寝ている二人を見て呟いた。そして左手で百々子の髪を優しく持ち上げる。
(大きくなった、もう子どもやないんやな)
吉信は重なった二人の手にそっと自分の手を置くと顔を交互に見る。
「そっくりや」
* * *
百々子がもう一度目を覚ますと、目の前に菜々子の寝顔があった。
(やっぱりめっちゃ綺麗な子や、ほんまに私の妹なんかな。この子見てると変な気分なるわ。なんなんやろかこの感じ。トラもアホみたいになってたけど、私と同じなんかな? いやちゃうな、あれはもっと男っぽい感情や。ん? 男っぽいってなんやろ? あぁ、なんか腹立ってくる。アホトラのことはエエわ)
そんなことを考えながら、菜々子の顔にかかっている髪の毛をゆっくりと持ち上げた。そうやって菜々子を見ていると、一昨日の吉信とのやり取りが蘇った。
* * *
その日も特に変わりのない一日だった……はずだ。
「ただいま……あれ? パパ帰ってる?」
家に入ると、吉信の靴が目に入った。そして、リビングには人の気配がする。案の定、吉信がリビングのテーブルでパソコンを開いて仕事をしていた。
(ちょっとなに? パパ、なんか緊張感あるやん。どないしたんやろか?)
吉信は「此れ見よがし」と言わんばかりに事有り気なオーラを放っている。百々子は勘の良い人間だったが、これは誰でも気付くレベルだ。
「おかえり」 吉信は百々子を見て笑いかける。
「ただいま。珍しいやん、こんな時間に。お店は?」
「ちょっと用あるから任せてきた」
「そうなんや。晩御飯は?」
「まだ」
「ほんなら作るわ。一緒に食べよ」
百々子は出来上がった食事をテーブルに並べる。二人は向かい合って座ると黙々と食べ始めた。黙って食事することも珍しくはなかったが、今日は明らかに妙な雰囲気が漂っていた。
そんな中、吉信が口を開く。
「あのさモモ」
「なに?」
「え~と。モモな、双子やねん」
「え?」
百々子はまさに言葉を失った。そして頭の中では「状況の理解」「沸き起こる感情」「混乱」「独り言」などなど……嵐のように駆け巡る。
(この人なに言ってんの? 双子ってなんや? そや、私の星座やん、ハハ。そういや、1日に誕プレもろてへんがな、このうっかり親父め~ うわ、なんかパパ、深刻な顔してるやん。超ウケるんですけど、ハッハー ってちゃうちゃう。あかんわ、私も変なってる。え? 双子ってなんや。つまり私に姉か妹がおるってことやんな?)
百々子の頭の中ではいろいろな言葉が飛び交ったが、どれもしっくりこない。心も宙に浮いているようで、フワフワと気持ちが悪く落ち着かない。もちろんこんなことは初めての経験だったので、吉信の発言に対応するという、会話の基本に戻ることすら時間が掛かってしまった。同時に、吉信も百々子が動揺しているのを感じ取ると、途端に視線が泳ぎだし、心が宙を舞い出した。そこは親として冷静さを保って娘を助けろよと言いたい場面だが、どうやら吉信の方でもいっぱいになっていたのだろう。百々子はこの時、混乱してしばらく黙っていたが、その時間が二人にとってちょうどいいガス抜きとなった。
「私に妹がおる? はぁ?」
ようやく声を出した百々子は、説明を求める強い意思を込めた目で吉信を見つめる。
「せやねん。で、明日から一緒に暮らすことなって……」
「ちょ、待って待ってパパ。意味分からん」 百々子は勢い込んで制止する。異様な展開に理解が追いつかない。
「順を追って詳しく話してや。ついていかれへん。いろいろあるんやろ?」
百々子の心はかなり騒ついていたが、同時に父の戸惑いも感じていた。しっかり話をしないと、冷静さを失った二人では変な誤解が生まれると本能的に気付く。
(ちゃんと話をせえへんと……)
「ああそう、そや……どこから話していいか……」
吉信は百々子の言葉で少しだけ冷静さを取り戻したようだ。
「まずさ、妹ってなに? 実の妹?」
「そう」
「何歳なん?」
「同じや。双子やし」
「……そやな。そりゃそや。うん、パパそう言ってたわ。え?」
百々子は、これまでの話を全く理解していなかったことに気付く。
(ちゃうちゃう、そこやない。私もなにを聞こうとしてたんや。双子は驚きやけど、話の順ってなんや? そもそも、これまでの話も、私、分かった気になってただけで、実際はパパの話してること全く理解してへんかったわ)
「ごめんパパ。私が話止めてるな」
「かまへんかまへん」
ツッコミだけは自然にできる大阪のおっさんみたいに取って付けたような反応をされ、緊張感がブツッと切れた。
「ちょっ、そのノリやめて」
「モモはお姉さんや。そうそう、誕生日は違うんよ。深夜の出産で日付を跨いだから。すごない?」
「今はそこどうでもええねん!」
変なタイミングでテンションが上がる父を冷めた目で見る。
(アカンわ、テンパって頭真っ白なっとる、ハハ。パパ、アホやな。なんかおもろなってきた)
「その子、どこにいてんの?」
「ママと一緒にアメリカ」
「アメリカ? え? ママと一緒? ママ?」 再びの衝撃で頭が変になりそうだ。ここに来てママの話題かよ。
(さらにぶち込んできやがった。空気が少し軽くなったと思ったら速攻でこれかよ)
百々子は続ける。
「ねぇパパ。双子の妹もビックリやけどママの話も出てきて感情がえらいことなってるわ。ママとも一緒に暮らすってこと?」
「いや、ママは亡くなって……」
「え? 亡くなった? 死んだ? なにそれ……」
高いところに持ち上げられて落とされたような衝撃だ。存在を意識したばかりの母がいきなりいなくなってしまった。もはやなんの話をしていたのか分からなくなってきた。母の死という事実は、たとえ思い出がなくても嫌なもので、心をかき乱し、不安な気持ちにさせる。
「パパ、これじゃ会話が成り立てへんわ」
百々子は今の状況を整理するように少し間を置いた後、ゆっくりとした口調で話を続けた。
「どれもサプライズ過ぎて、反応が毎回デカなってまう。パパかってこんな話は上手く話せへんやろ? 私は黙っとくから、とにかく区切り良いとこまで話してくれへん?」
百々子の提案は効果を発揮した。いつもは気楽な関係なだけに、説明する父の言葉選びは不自然この上なかったが、百々子が聞き役に回ったことでなんとか状況を理解できた。
百々子たちが2歳のとき、吉信と母は別れた。母がアメリカで仕事をすることになり、互いのキャリアを尊重した結果だった。1年前、母が余命宣告を受けたことで吉信と母の交流が再開し、母は菜々子を引き取ってほしいと吉信に頼んだ。ざっとこんなところだ。
(なるほどね。けど、なんで私らまで離れることになったんや……って、これ以上聞くんはあかんな) どうやら吉信もパンク寸前のようだ。
話が一段落したころには父娘二人とも疲れ果て、死神に憑かれたようにゲッソリしていた。
「はは、モモ、顔やべーぞ」
「やべーのはそっちや」
冗談を言うタイミングもおかしければ、その言い方もスベっている。こんな父は珍しかったが、百々子もフォローする気力がなかった。
「大体分かった。まぁ上手くやるようにするわ」
「頼むわ」
「あのさ、落ち着いたらまた話聞かせてや」
「分かった」
「これって私は怒ってええとこなんかな?」
「怒ってええんちゃうかな……怒ってるんか?」
「分からん。感情が分からんわ。別に嫌な気持ちがあるわけやないけど」
「そうか。ほな、言いたいことが出てきたらいつでも言えよ」
「分かった」
* * *
「ママとそっくり」
百々子は菜々子の寝顔を見ながら、彼女が言ったことを思い出していた。
(どんな人やってんやろ? なんか気になってきたな)
すると菜々子がゆっくりと目を開けた。
「おはよう」
百々子の言葉が届かないのか、菜々子の目はトロンとして焦点が合っていない。自分にはない艶っぽさを感じさせる目の前の女も、このときは幼さを感じた。
「寝ぼけてる?」
百々子はおもしろそうに菜々子を見ていたが、すっと視界が暗くなった。
「ママ」
菜々子は百々子の頬に口づけ、その頭を胸元へ抱き寄せた。
チュッ、チュッ。
今度は髪の上から、二度唇が触れた。そして甘い拘束から解放されて視界が明るくなると、間髪入れずに腕が背中に回ってきて抱きしめられた。
百々子はされるがまま動けなかった。だけど不快ではない。菜々子の体温を感じる。トクッ、トクッと菜々子の鼓動が百々子の心臓に伝わる。体も心も弛緩していき、そのまま目を閉じた。
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